“蕎麦”に携わる人々の想いを紡いでいく、【そば色ノ日々】。今回は、複数の飲食店での経験を経て、現在は夫婦お二人で、自分たちの大好きな、蕎麦屋酒を愉しめる、そんなお蕎麦屋創りへ、東京の八丁堀【手打ちそば 梠炉】を舞台に挑戦し続けていらっしゃる茨木さんご夫妻の、お蕎麦への想いを紡いでいきたいと思います。
プロフィール |
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<茨木 敏之さんの略歴> 昭和48年宮崎生まれ。高校卒業後UCC就職に伴い上京。UCC時代の店長経験より飲食店の経営を学び、その後水炊き屋での経験を経て、お酒も愉しんでもらえる蕎麦屋を開きたいと、2019年東京八丁堀で【手打ちそば 梠炉】を開店。 |
—茨木さん、本日は週末の夜の営業前のお忙しい中にも関わらず、貴重なインタビューのお時間をいただきありがとうございます。茨木さんとは、コロナ禍初期に、私が困っているお蕎麦屋さんに何か出来ることがないかと考えているときに、お取り寄せのお蕎麦をブログで紹介させていただいた時からのお付き合いをさせていただいていて、蕎麦屋酒も毎回とても酔い時間を過ごさせていただいています。今日は色々とお話をお伺いできること、楽しみにしていました。よろしくお願いします。
(コロナ渦お取り寄せ蕎麦の記事:https://sobaya-de-jyokigen.com/3318)
茨木敏之さん(以後敏之さん)
こちらこそ、その節はありがとうございました!今でもお取り寄せのお蕎麦はやっていまして、ぜひ、全国の皆さんにも、私の打ったお蕎麦を愉しんでもらえると嬉しく思います。
—では早速ですが、まずは茨木さんのお蕎麦との出会い、そしてお蕎麦屋さんを開店するに至るまでのお話をお伺いしていけたらと思います。
敏之さん)
私はもともと宮崎県の生まれで、高校卒業後は学生時代アルバイトをしていた縁もあって、UCCに就職し、そのタイミングで東京に出てきました。UCCでは後半は山梨県で店長も任せてもらい、そこで経営についても学ぶことが出来ました。
その後、別の飲食での経験も積んでいきたいとの想いから、様々なご縁もあって、博多が本店の水炊き屋さんに転職し、かれこれ10年ほどそちらで働かせて頂きました。そのお店は、料亭のような少し格式が高いお店でしたね。ちなみに、その時に今の嫁とも出会いました。
そして、嫁がある日、お蕎麦屋さんをやりたい、という話を切り出してきて、そこから一気に蕎麦屋を自分たちで開く方向に進んでいきました。
—運命的な出会いですね。ちなみに、UCCと、奥様と出会われた水炊き屋さんでの、二つの異なった飲食屋でお仕事をなされて、今のここのお蕎麦屋さんをやられているうえで、活かされていることはありますか?
敏之さん)
はい、UCCは喫茶店で、そこで店長もやっていたのですが、お客様の単価がどうしても700-1000円位なんですよね。一方で、水炊き屋の方は、コースがメインであり、また、お酒も愉しまれるかたが多くいらっしゃるお店だったことで、売り上げの金額がかなり大きく違いました。そうした経験から、独立をするなら、お酒も愉しんでもらえる、そんなお店をやりたいなと思っていて、今の蕎麦屋酒を愉しんでもらえるお店創りに繋がっています。
—そんな中、奥様からお蕎麦屋さんをやりたいという話しを受けて、最初は如何でしたか?
敏之さん)
そうですね、私自身実は東京に出てくるまではあまり、蕎麦というものに触れてこなかったですし、蕎麦打ちもしたことが無かったので、まずは勉強だなということで、蕎麦打ち教室に出向いたり、あとはもうほぼほぼ独学で蕎麦を打ち続けましたね。
ただ、初めてお蕎麦を打った時に、どうも手に馴染んだんですよね。
その時に「蕎麦、良いな!」と想い、今日に至っています。
—(インタビューに同席いただいていたので)奥様はちなみに、なぜお蕎麦屋さんをやりたいと思うに至ったのですか?
奥さま)
私の実家は、浅草で100年を超える、老舗のおでん屋をやっているんですね。ただ、お分かりになると思いますが、おでん屋だとどうしても季節に売り上げが左右されてしまうんですよね。ご想像される通り、やっぱ冬に売り上げがまとまっていて。そうした実情を見ていて、季節もののお店はやめようとまず思っていました。
ただ、飲食店自体は、自分で始めたい気持ちが強かったものですから、折角なら、日本の文化を紡いでいけるもので、尚且つ、年齢関係なく、長く愛され続ける、そして健康的にも良いものをと考えた末に、お蕎麦にたどり着きました。
あと、若い時に実はフランスに住んでいたことがあるのですが、向こうでは蕎麦というとガレットですよね。また、日本食というと、ラーメン、うどん、寿司はあがるんですけど、蕎麦ってみんな知らないんですよね。
今思えば、そんな海外での経験もあって、私自身蕎麦が好きということもありますが、そうした蕎麦という日本文化をもっともっと多くの人に知ってもらいたいという意識も、どこかにあったのかもしれないですね。実際、うちのお店にも、外国のお客様がたまにいらしていただけるのですが、当然ながら、蕎麦湯の飲み方を知らなかったりするんですよね。日本の独特の文化を、ぜひ、海外の方にも広く今後は知っていっていただきたいと思います。
敏之さん)
蕎麦屋の魅力は、蕎麦前があり、お酒も愉しめて、そして最後は蕎麦で〆る、フルコースが愉しめるところだと思っています。小料理屋さんもいいなと思ってはいたのですが、どうしても、つまみとお酒だけで完結してしまうあたり、一軒でフルに満喫いただけるお蕎麦屋さんに、個人的にとても魅力を感じていました。きっと懐石料理屋でコースを出していたことも、そうした想いに繋がっているんだと思います。
—元々お二人は、お蕎麦屋さんで呑むことは好きだったのでしょうか?
敏之さん)
水炊き屋で働いていた時も、休みの日は二人でよく、いろんなお蕎麦屋さんを巡っては、一杯愉しむことが多かったですね。
—お店を開かれるにあたって、どのような準備をされてきたのでしょうか?
茨木さん)
嫁はとあるお蕎麦屋さんで二年間ほど勉強の為に働きにいき、一年を通しての蕎麦屋の経営や、料理の提供のタイミング、仕入先や仕込みのやり方などなどを実際のお店で学んでくれました。
私は、蕎麦打ち場を作ってからは、毎日ここの打ち場でひたすらに蕎麦を打っていましたね。
—今は常連のお客さんも増えてきていると思いますが、今後、更にこうしたコトに挑戦していきたいなどがあれば、教えてください。
茨木さん)
コロナ禍には冷凍のお取り寄せしてもらえるお蕎麦を作ってみたりと、新しいコトに挑戦してきました。また、開店当初からは、来ていただけるお客さんの層も実は変わってきているので、もっともっと常連のみなさんが、夜に、一杯やりながら愉しめる、そんなお蕎麦屋さんにしていきたいなと思っています。
また、将来は、地元の宮崎に戻って、まだまだ元気な地元のおばあちゃん達が活躍できるようなお蕎麦屋さんも一緒に作っていきたいと思っています。地元は、過疎化が進んではいるのですが、お蕎麦を通じて町を盛り上げる活動につなげていきたいですね。
あとは、子供たちにも蕎麦に触れてもらえるような、場作りをにも今後取り組んでいきたいなと思っています。やっぱ自分で打ったお蕎麦って格別じゃないですか。そうした感動を子供たちに味わってもらえるようにしたいなと思っています。そうした活動を通じて、日本の文化や食の大切さを紡いでいきたいと思っています。
<最後に、茨木さんにとっての“そば色”とは?>
【白ですね】
キャンバスのように自分の色をつけていけることが魅力だと思っています。
【手打ちそば 梠炉SNS】
Instagram:@teuchisobalolo